2026.04.11 コーヒーの読み物
物語が溶ける一杯 No.2 ~ 50ドルの結末
もう15年以上も前の話である。
コーヒーの買い付けの為、私はニカラグアの空港に降り立った。到着は19時を過ぎていた。
すでに陽は落ち、滑走路の向こうには濃い闇が広がっていた。
ターンテーブルで荷物を受け取ると、そのまま足早に外へ出る。空気はわずかに蒸しているが日本の夏ほど重たくはない。
乾いた風が時折吹き抜けて、長時間のフライトでこわばった身体をゆるめてくれる。
―― ああ、今年も来たなと実感する
空港の外にはタクシードライバーたちが待ち構えていた。外国人の姿を見つけた途端、間髪入れずに5人、6人と距離を詰めてくる。
「タクシー?」「タクシー?」
一斉に声が飛ぶ。この光景は、もはや風物詩のようなものだ。初めて訪れる人なら圧倒されるかもしれないが、私にとってはもう慣れたものだった。
『夜の移動は避けよ』の原則に従ってここマナグアで一泊し、翌朝に産地へ向かう予定だった。
ただ、その日は少しだけいつもと違った。
心のどこかにちょっとした遊び心が芽生えてしまったのだ。
―― そうだ、レオンに行こう
ふとそんな考えが頭に浮かんだ。レオンはニカラグアの美しい古都で、かつて私がスペイン語学校に通っていた時の定宿がある街だ。買い付けのルートからは少し外れるが久しぶりにあの街で一泊したい。そんな気持ちが夜の移動にGoサインを出してしまった。
私を取り囲むタクシードライバーたちに向かって「レオンに行きたい」と告げる。
一人がすぐに応じた。
「レオンまで2時間はかかる。80ドルだ」
タクシーの相場は全く分からない。しかし少し高すぎるような気がした。ここは交渉の余地がある場面だ。
「50ドルで行ってくれ」
「70ドルでどうだ。どうせ交通費は会社持ちだろ?」
「いや、自分で払う。だから50ドルじゃなければ乗らない」
その一言で場の空気がはっきりと変わった。ドライバーたちの表情が一斉に曇る。50ドルでは誰もやりたがらない。
それがすぐに伝わってきた。それでも私はこの価格がどこまで通るのか試してみたくなった。
『おい、どうする?』ドライバーたちは、ひそひそと相談をしている。
するとそこにボスらしき男が近づいてきた。事情を聞くと周囲を一瞥し、無造作に一人の若いドライバーを指さした。
「おまえ、行ってやれ」
指名された若いドライバーは、露骨に不満そうな顔をしてこちらに歩いてくる。無言で私のスーツケースを持ち上げ、トランクに放り込んだ。その動きには、やりたくない仕事を押し付けられたという感情がはっきりと表れていた。
私が乗り込むとタクシーは静かにマナグアの街へ滑り出した。
しかし、車内には重たい沈黙が流れていた。エンジン音だけがやけに大きく聞こえる。
――これはまずい
2時間の道のりをこの空気で過ごすのはさすがに気が滅入る。せっかくのニカラグア滞在だ。
この土地の魅力を精一杯味わいたかった。ここで関係をこじらせるのは得策ではない。
「着いたばかりで、まだ夕食を食べていないんだ。よかったら、奢るから一緒に何か食べに行こう。」
一瞬の間のあと、彼の表情がぱっと変わった。
「本当か?ちょうど腹が減ってたんだ」
車内の空気が一気に緩んだ。
彼は地元の人たちで賑わう屋台に車を止めた。炭火で焼ける肉の匂いが食欲を刺激する。
「俺たちは肉なんてめったに食べられないんだ」
そう言いながら彼は嬉しそうにニカラグア産の牛肉にかぶりついた。
ついさっき会ったばかりのタクシードライバーと夕食を共にする。こういう瞬間こそが旅の醍醐味である。
食事を終えて再び車に乗り込むと、さっきまでの気まずさは嘘のように消えていた。
彼はよく喋るようになり、家族のこと、仕事のこと、ニカラグアのあれこれを次々と話してくれる。
車はレオンへと続く一本道を順調に走っていた。街の灯りは遠ざかり、周囲は次第に闇に包まれていく。
その時だった。彼がふと表情を曇らせた。
「何か変な音がする」
私は耳を澄ませてみたが正直なところ特に異変は感じられなかった。
エンジン音も路面から伝わるタイヤの振動もごく普通に思えた。
「そうかな?」
と軽く返すと、彼は少し神経質な様子でさらに注意深く運転を続けた。
そして数分後、車は路肩に止まった。外に出てボンネットを開けてしばらく何かを確認していたが、やがて戻ってきてこう言った。
「この車は・・・もう走れない」
―― 嫌な予感がした
道の両側にはサトウキビ畑がどこまでも広がっている。
はるか遠くに製糖工場の黒い影がぼんやりと浮かんでいるくらいで、他には何も無い。
空を見上げると大きな月と無数の星。だが、その美しさとは裏腹に私の頭の中は不安でいっぱいだった。
「代わりのタクシーを探してくる」
そう言い残し、彼は私を車内に残したまま暗闇の中へ歩いていった。
―― こんなサトウキビ畑の真ん中で、本当にタクシーなど見つかるのだろうか・・・
だんだん時間の感覚が曖昧になり、何分待っているのか分からなくなる。恐怖だけがじわじわと膨らんでいく。
その時だった。コツ、コツ、と窓を叩く音。
ドライバーが戻ってきたのかと思い顔を上げると、そこに立っていたのはなんと警官だった。
―― よりによって、こんな時に
予想外の展開に冷や汗が吹き出す。
窓を開けろ、というジェスチャー。だが、この警官が本物かどうかは分からない。
もしニセ警官だった場合、窓を開けた瞬間に何が起こるか想像するだけで恐ろしかった。一方で、本物の警官の指示に従わなかった場合のリスクも十分にあった。
迷った末、指二本分だけ慎重に窓を開けた。
「こんなところで何をしている?」
「レオンに向かう途中ですが、車が故障して、運転手が代わりのタクシーを探しに行っています」
怪しまれないよう、なるべく丁寧な口調で答えた。
警官は少しの間黙った後、私に向かってこう言った。
「タバコを一本くれないか?」
拍子抜けした。煙草は持っていないと伝えると、警官は残念な様子でそのまま去っていった。
―― よくわからないがとにかく助かった
緊張が一気にほどけ、身体から力が抜ける。まるで大きな仕事を終えたあとのような奇妙な脱力感だった。
しばらくしてドライバーが戻ってきた。どうやら本当に別のタクシーを見つけてきたらしい。
「このタクシーが、ここからレオンまで25ドルで行ってくれる」
そう言われ、『助けに船』とはこのことかと私は喜んで提案を受け入れた。
乗り換えたタクシーは、何事もなかったかのようにレオンへ向かって走り出す。
先ほどまでの不安や恐怖が嘘のように心は穏やかだった。
――しかし、ここでようやく気づく
最初のタクシーに50ドル。乗り換えたタクシーに25ドル。合計75ドルだ。それに加えて夕食代が5ドル。
なんだ。結局、最初に提示された80ドルではないか。
―― あのドライバー、やってくれたな
車の故障というのは、おそらく嘘だろう。
つまり『50ドルで行けるのはここまでだ』という地点でうまく降ろされたというわけだ。
私はシートに深く身を預けながら、さっきまでの一連の流れを反芻していた。
価格交渉の時から、ずっと自分が主導権を握っているつもりだった。しかし、実際は違っていた。
この物語の結末を知らなかったのは私だけだったのだ。
そう考えると思わず笑みがこぼれた。
不思議と悔しさはなかった。
それどころか、このニカラグア劇場で、この『大役』を最後まで演じきったことに満足感すら覚えていた。
やがて遠くにレオンの灯りが見え始める。
予定はとうに崩れ、すでに深夜近くになっていた。
車は見慣れた宿の前にゆっくりと止まった。

タクシーから降りて、大きな木の扉をノックする。開けてくれたのはオーナーだった。
眠そうに目をこすりながら、私の顔を見ると少し驚いたようだった。
「こんばんは。久しぶりだね。今夜泊まりたいんだ」
そう伝えると、オーナーは申し訳なさそうに首を振った。
「あいにく今夜は満室なんだ」
一難去って、また一難。時刻はすでに深夜に近い。今から別の宿を探すのは簡単ではないし、正直なところ危険もある。
でも仕方がない、どこか別を当たるしかない。
「じゃあ……」と言いかけたその時だった。
「そうだ、中庭にハンモックがある。そこで一晩寝てもいいよ」
―― 助かった
思いがけない提案だった。
行く当てもなかっただけに、その一言で肩の力が抜けた。
荷物を中庭の脇に置き、ハンモックに身体を預ける。
昼間のレオンは容赦なく暑いが、夜は風が心地いい。これならすぐに眠れそうだ。
その時だった。
奥の方から、懐中電灯の光がチラチラとゆっくり近づいてくる。
―― なんだろう?
自然と身構える。
光の主は、警備員だった。
「こんなところで何をしているんだ?」
ついさっき、サトウキビ畑で似たようなやり取りをしたばかりだ。
だが今度は嫌な予感はまったくなかった。
ここは慣れた定宿であり、安心できる場所だった。
「部屋がなかったから、ここで朝まで寝かせてもらうんだ」
そう答えると警備員は、少し驚いたような顔をして
「寒くないのか?」
「とんでもない。気持ちいいよ。寝るにはちょうどいい」
すると彼は、ニヤッと笑ってこう言った。
「後悔するぜ」
そう言い残して、闇の中へ消えていった。
――後悔なんてするはずがない。こんなに気持ちのいい夜なのだから。
そのまま私は、深い眠りに落ちていった。
だが、朝方。寒さで目が覚めた。
あれほど気持ちよかった夜風は、すっかり冷たい空気へと変わっていた。身体が冷え切り、とてもではないが眠っていられない。
――あいつの言う通りだ
レオンの朝は思っていたよりずっと冷える。
とてもじゃないが寒くて寝ていられない。どうにかならないかと辺りを見回していると、一匹の猫が庭を歩いていた。
私は思わずその猫を捕まえて抱き上げた。
驚いた顔をした猫だったが、しばらくすると大人しくなった。
その体温がじんわりと伝わってくる。
時折逃げ出そうとする猫をなんとかなだめながら空を見上げると、もうだいぶ明るくなっていた。
思い通りも、予想通りも何もない、ニカラグアの初日だった。
―――― Fin
※この話は、カフェテナンゴ店主かやぬまが実際に体験した実話です
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