2026.05.16 コーヒーの読み物
物語が溶ける一杯 Vol.3 | マタガルパのコーヒー 〜 私の原点となった一杯 〜
忘れられないコーヒーというものがある。
それは品種や精製方法や点数で語れるようなものではない。
スーパーの棚に並んでいるような、ごく普通のコーヒーだった。
それでも夕暮れの風、土の匂い、遠くでサッカーをする子どもたちの声と一緒に、その味が今もはっきりと私の体のどこかに残っている。
まだカフェテナンゴを創業する前、私はスペイン語とコーヒーを学ぶ為に、ニカラグアの山あいの町、マタガルパでホームステイをしていた。
これは私のニカラグアコーヒーの原点になった一杯の話である。
短期集中で言語を習得するには、ホームステイに限る。
スペイン語学校の先生に連れられて、候補となる二軒のホストファミリーを訪問した。
最初に行った家は申し分がなかった。
清潔で、静かで、私専用の部屋まで用意されている。
家族の方たちも、丁寧で感じが良い。
後で知ったことだが、先生たちはてっきりこちらを選ぶだろうと思っていたらしい。
なるほど、客観的に見ればそうなる。整った環境で勉強に集中できる。それは正しいと思う。
ただ、私の心はどこかよそを向いていた。
もう一軒は、全く別の世界だった。
戸口をくぐった瞬間、足の裏に土の感触があった。
床がない。
そのまま視線を上げると、天井もなく、波打つトタン屋根がむき出しのまま頭上に広がっている。

案内された私の部屋は、その家の子どもと相部屋だという。
隣の両親の部屋との仕切りは、”ベニヤ板”一枚だ。
手で軽く押すと、ベコベコと音を立てて動いた。
ベッドに腰を下ろすと中央部のスプリングが長年の疲労で陥没していて、寝転がると体がゆっくりとくの字に沈んでいく。
『これは腰にくるな』と内心案じているとそれを察したようにお父さんが言った。
「この家のベッドは全部へこんでいる。だが、その中で一番へこみの少ないものを君に用意しよう」。
思わず笑ってしまった。
その言葉がひどく可笑しくて、そして妙に温かくて、私はその場で決めた。
明日からここにお世話になる、と。
綺麗に整った部屋よりも土の上に置かれた凹んだベッドにワクワクしてしまったのだ。
でも旅というのはそういう感覚に従うものだと、若い私は信じていた。
もう一つ、私の心を強く動かしたものがあった。
小さな食卓の隅に置かれたパーコレーターだ。
銀色の胴体に長年の熱と油が染み込んでいるのが見てとれる。
誰かが毎日粉を量り、水を入れ、コーヒーを淹れてきた。
その繰り返しの痕跡が金属の表面に確かに刻まれていた。
この家の人たちはコーヒーが好きに違いない。
そう思ったのだ。
そしてその予想は正しかった。

毎日家族でコーヒーを囲む時間があった。
言葉はまだ拙くても湯気の立つカップを挟んで向かい合えば不思議と沈黙が苦にならない。
コーヒーはそういう飲み物だと改めて思った。
学校の休みに近くの農協や農園を訪ねる時には、必ずコーヒーを買って帰った。
この家は三世帯が暮らす大家族だったからコーヒーはいくらあっても足りなかった。
袋を抱えて帰るたびに、家族は本当に喜んでくれた。

ホームステイが二週間を過ぎたころ、私は突然の高熱で倒れた。
体温計がないから正確な数字はわからない。ただ、もう立っていられなかった。
マタガルパの朝晩は涼しいが、昼間の陽射しは容赦がない。
日に焼けたトタン屋根がこんなにも部屋を暑くするとは、その時初めて知った。
自分の発熱と屋根からの熱気で意識が遠のいた。
翌日も下がらない熱に心配したお父さんが山に入って薬草を採ってきてくれた。

何という草で、どんな効能があるのか、丁寧に説明してくれたのだがそれを聞き取る気力も語学力もなかった。
目の前に差し出されたカップを一息に飲んだ。予想通りひどい味がした。
だが、これが効いても効かなくてもどうでもよかった。
私は嬉しかったのだ。自分の為に日が落ちた山に入って一掴みの薬草を採ってきてくれた。
そのやさしさが。
次の日もサウナのような部屋の中で、朦朧としながら眠りと覚醒のあいだを漂い続けた。
時にはふと弱気になって
『ここで死ぬのかもしれない』と本気で思った。
しかし、夕方になると急に全身から汗が噴き出した。
シャツがぐっしょりと重たくなった代わりに体は嘘のように軽くなった。
ゆっくりと起き上がって新しいTシャツに着替え、おぼつかない足取りで外に出た。
辺りはすでに薄暗く、山の稜線が空に溶けかけていた。
丘の上から吹き下ろす冷たい風が火照った体をやさしく撫でていく。
あまりの心地よさに思わず目を閉じた。
ここにいる。生きている。それがひどく確かなことに思えた。
向かいの道で子どもたちがサッカーをしていた。夕暮れの中で、声だけが明るかった。
私はいつの間にか、家の壁に寄りかかって地べたに力なく座り込んでいた。

しばらくするとおばあちゃんが家から出てきて、淹れたてのコーヒーと一枚のクッキーをそっと手渡してくれた。
あの時飲んだコーヒーは、今でも忘れられない美味しさである
====== Fin ======
※『物語が溶ける一杯』シリーズは、カフェテナンゴ店主栢沼が実際に体験した実話です。
カフェテナンゴ店主かやぬまの紹介記事
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