2026.07.17 コーヒーの読み物
聖典の終焉と無数の世界 ―― ポスト・スペシャルティの時代
2012年、雑誌『BRUTUS』のコーヒー特集「美味しいコーヒーの進化論」の取材を受けたとき、私はインタビュアーにこう話した記憶がある。
「ポスト・スペシャルティの時代は、すぐそこだと思います」
すると、すぐに聞き返された。
「では、ポスト・スペシャルティとは、どのような時代だと思いますか」
しかし、私は答えることができなかった。
スペシャルティコーヒーをめぐる熱狂が、いつまでも続くものではないことは分かっていた。けれど、その先にどのような世界が現れるのかまでは、見えていなかった。
当時の私自身が、まさにその熱狂のただ中にいたからである。渦の内側にいる人間には、次に訪れる時代を俯瞰することができなかった。もしあのとき、「ポスト・スペシャルティとは、このような時代だ」と具体的に言語化できていたなら、その言葉も記事に収録されていたはずだ。
一方で、スペシャルティコーヒーが広く社会へ浸透していくことについては、それ以前から確信に近いものを持っていた。
日本では2012年よりずっと前から、品質や生産履歴を重視する先駆者たちが道を切り拓いていた。私が在籍していたコーヒー工房ホリグチも、日本のスペシャルティコーヒー黎明期を牽引した存在のひとつだった。
そこで働いていた頃、私は、これからは単に「どこの国のコーヒーか」ではなく、誰が、どこで、どのように作ったのかが分かるコーヒーが広く飲まれるようになると考えていた。
そうなったとき、私はひとつの結論に行き着いた。
「コーヒーを売る者は、産地を知らなければならない」
その考えを実践するため、私は2005年、コーヒー工房ホリグチを辞め、単身で中米へ渡った。
産地の言葉を学び、農園を訪ね、生産者と同じ場所に立ち、コーヒーが作られる現場を自分の目で見るためだった。
3年にわたる中米での武者修行を終え、2008年にカフェテナンゴを創業した。
産地を知り、生産者とつながり、そのコーヒーを自ら焙煎し、消費者へ届ける。
この一貫した体制こそが、私の考えるスペシャルティコーヒーの基本だった。
その数年後に『BRUTUS』の取材を受けたのも、スペシャルティコーヒーが一部の愛好家の世界を越え、広く社会から注目され始めた頃のことだった。
ずっと以前から積み重ねられてきたものが、サードウェーブという新しい名前と装いを与えられ、まるで最新の流行であるかのように熱狂的に消費されている。あの取材で私が口にした言葉は、未来を見通した予言というより、その浮かれた空気に少し冷や水を浴びせたい、という気持ちから出たものだった。
しかし、14年が経った2026年の現在、産地の最前線、オークション、消費国の動向を広く見渡してみると、私たちはいつの間にか、ポスト・スペシャルティの時代のただ中にいる。
あのとき口にした言葉は、気づかぬうちに、私たちを取り巻く現実そのものになっていたのである。
いま起きているのは、スペシャルティコーヒーという世界そのものの消滅ではない。
その世界を長く支えてきた、共通言語の解体である。
私は、ときどき自分自身に問いかける。
「ああ、これが私たちの望んだ世界だったのだろうか」
私たちの目の前にあるのは、誰もがひとつの理想を信じ、同じ方向へ歩いていた時代ではない。
それぞれが異なるルールと美意識を掲げる、無数の世界が併存する時代である。
2000年代の原風景――私たちが信じた「引き算の美学」
2000年代初頭、スペシャルティコーヒーが世界的なムーブメントへと成長していった時代、少なくとも当時の私たちには、世界がひとつの方向へ収束していくように見えていた。
COE(カップ・オブ・エクセレンス)という国際品評会や、当時のSCAA、SCAEなどが示していたのは、「From seed to cup――種子からカップまで」という思想だった。
その土地の気候、標高、土壌、品種、栽培環境、そして生産者の真摯な仕事。
それらが形づくるコーヒーの基礎的な性質を、濁りなく、クリーンにカップへ落とし込むことが理想とされた。
なかでも、丁寧に仕上げられたフリーウォッシュドは、その「引き算の美学」を象徴する精製方法だった。
欠点となる風味を抑え、冷めるほどに明瞭になる甘みと、緻密な酸、透明感のある質感を引き出す。
精製による演出を比較的抑えながら、土地や品種、チェリーそのものの性質を読み取る。
その端正な美しさは、スペシャルティコーヒーにおける最高品質の重要な基準だった。
大手商社やインポーターのバイヤー、訓練を積んだカッパーたちが、カッピングを通じて品質を選別する。その評価をロースターが受け取り、消費者へ伝える。
そこには、品質評価の入口を専門家が管理する、明確なゲートキーピングの構造があった。
もちろん、当時からすべての人が同じ味を好んでいたわけではない。ナチュラル精製も存在し、地域やロースターによる嗜好の違いもあった。
それでも私たちは、「真面目に良いものを作れば、共通の評価軸によって正当に価値が認められ、生産者が報われる世界が来る」と信じていた。
その信念には、どこか理想主義的な純粋さがあった。
SNSがバイパスした「教科書」と、買い方の民主化
しかし、2010年代以降、インターネットとSNSの爆発的な普及が、その構造を根底から組み替えた。
20年前、地球の裏側にいる農園主と直接つながることは、ごく一部の人間にしか許されない特権だった。
ところが今では、WhatsAppやInstagramなどのDMを通じて、ロースターと農園主が1対1で連絡を取り合える。
価格や数量を確認し、サンプルを送り、購入の意思を伝え、輸出業者や商社を交えて契約を進める。
私自身、コロナ禍で産地へ渡航できなかった時期に、Facebookメッセンジャーを通じて生産者と交渉し、ダイレクトトレードを成立させた。
この「買い方の民主化」は、ロースターに大きな自由をもたらした。
それまで商社や専門カッパーが握っていた品質選別の権限が、小規模ロースターを含む、多様な買い手の側へ大きく分散したのである。
ここで重要なのは、商社やカッパーが不要になったということではない。
現在もインポーターや商社は、輸送、金融、通関、品質管理といった重要な役割を担っている。
変わったのは、彼らが品質評価の入口を独占する時代ではなくなったということだ。
従来の評価基準では選ばれにくかったコーヒーでも、特定の味を好む買い手と直接つながることで、商品として成立するようになった。
SNSは、単に連絡を便利にしたのではない。
異なる価値観を持つ売り手と買い手を、従来の選別経路を通さずに結びつけたのである。
同時に、スマートフォンを手にした中米や南米の若い生産者たちは、「どのような精製方法が注目され、どのような風味に高値がつくのか」をリアルタイムで知るようになった。
発酵時間、温度、pH、使用する菌、タンクの構造、乾燥方法。
それまで一部の生産者だけが持っていた精製の知見も、急速に共有されていった。
高標高や土壌、気候といった環境条件は、努力だけでは手に入らない。
一方、発酵や精製の技術は、資金と情報によって導入できる。
こうして、かつての「クリーンカップの教科書」だけでは説明できないコーヒーが次々に生まれ、市場のルールは大きく書き換えられていった。
派手なプロセスの台頭と評価基準の断片化
この変化には、ワイン市場が辿った歴史との類似点がある。
かつてワインの世界では、フランスのAOCをはじめとする、産地や品種、製法を守る伝統的な原産地呼称制度が大きな権威を持っていた。
そこへロバート・パーカーに象徴される、個人の舌による点数評価が強い影響力を持つようになり、果実味が豊かで濃厚なワインが国際市場で高く評価された時代があった。
その後、ワイン市場は伝統的な価値観へ単純に回帰したわけではない。
工業的な製造や画一化への反発、小規模生産者への関心、環境意識、造り手の物語を重視する価値観が重なり、ヴァンナチュール、いわゆる自然派ワインが大きな存在感を持つようになった。
従来の専門家が欠点とみなしていた風味さえも、「造り手の個性」や「そのワインらしさ」として肯定するコミュニティが生まれたのである。
もちろん、低介入を掲げる自然派ワインと、発酵条件を積極的に制御するコーヒーを、技術的に同一視することはできない。
しかし、従来の専門家が欠点や逸脱とみなしてきた風味を、新しい共同体が独自の価値として再評価するという点では、よく似ている。
現在のコーヒー市場でも、アナエロビックやインフューズドなど、プロセスによる強いキャラクターを持つコーヒーが注目を集めている。
ただし、これらをすべて同じものとして扱うべきではない。
アナエロビックは、酸素を制限した環境で、コーヒー自身が持つ糖や微生物の働きを利用する発酵方法である。
一方、インフューズドは、果実やスパイスなど、コーヒー以外の素材を工程に加え、その風味を意図的に付与する方法である。
両者は、技術的にも、表示や透明性の問題においても、区別して論じる必要がある。
ただし、両者に共通して起こり得ることがある。
プロセス由来のキャラクターが強くなるほど、土地や品種、チェリーがもともと持っていた性質との境界が見えにくくなるということだ。
高標高の土地と優れた品種に恵まれた生産者のなかには、
「なぜ、完成度の高いチェリーに強い加工を施し、土地の個性を覆わなければならないのか」
と葛藤する者もいる。
しかし、一口で劇的な違いが分かり、SNSの画面越しでも特徴が伝わりやすい味は、商品として大きな力を持つ。
評価の権威は分散した。
だが、資本まで均等に分散したわけではない。
細分化された市場の一部、とりわけ一部の高額オークションや新興市場では、派手で分かりやすいプロセスに資金が集中している。
かつてのように、ごく少数の著名なロースターが、市場全体の評価を方向づける時代も終わった。
現在は、特定のニッチなコミュニティのなかで支持される、小さなカリスマが無数に存在している。
それぞれが、
「これこそが、私たちの最高だ」
と独自の基準を発信する。
市場は、ひとつの中心を持たないまま、細かく断片化している。
「ポスト・スペシャルティ」の時代を生きる
私たちが2000年代に共有していた、
「クリーンで、緻密な酸と透明感を持つフリーウォッシュドこそ、最高品質の中心である」
という共通言語が、再び市場全体を支配することはないだろう。
それは消滅するのではない。
ひとつの完成された美学として、「クラシック」と呼ばれる独立したジャンルへ格納されていく。
この光景に、寂しさを感じないと言えば嘘になる。
私たちが信じた共通の評価軸は、確かに生産者と消費者を結びつけ、多くの優れたコーヒーを世界へ送り出した。
しかし、共通の正義が消えたからこそ、私たちは自らの立ち位置を、より明確に定義しなければならなくなった。
世界をひとつの基準で説得する必要はない。
発酵や新しい精製技術に挑戦する生産者たちを、私は否定するつもりはない。
彼らもまた、より高い品質を求め、より魅力的な一杯を作ろうと、汗を流し、失敗を重ね、試行錯誤を続けている。
安定した発酵を実現するには、熟度、温度、時間、糖度、pH、微生物、乾燥といった、多くの変数を管理しなければならない。
タンクさえ用意すれば、誰にでも優れたコーヒーが作れるわけではない。
その多様な挑戦は、生産者の経営を支え、消費者に新しい驚きを与える、尊重されるべき選択肢である。
ただし、多様な価値を認めることと、買い手が自らの評価基準を手放すことは、まったく別の話だ。
少なくとも、長い時間をかけて産地と向き合い、生豆を選び続ける買い手として、私が手放してはならないと考えているものがある。
それは、その土地と品種が持つ基礎的な力を見極める目である。
そして私にとって、その目を鍛え続けるための、最も信頼できる比較のレンズがフリーウォッシュドなのだ。
フリーウォッシュドも、決して「何もしていない」精製ではない。
収穫熟度、果肉除去、発酵、洗浄、使用する水、乾燥速度、貯蔵環境。
あらゆる工程に、生産者の判断と技術が介在する。
それでも、果肉や外部素材、長時間発酵による風味の影響を比較的抑え、土地、品種、チェリーそのものの性質を読み取りやすくする精製であることは確かだ。
発酵技術によって風味を増幅し、新しい個性を生み出すことはできる。
しかし、増幅された風味が強いほど、その奥にある土地や品種の基礎的な性質は見えにくくなる。
だから私は、新しいプロセスを評価するときにも、可能であれば、同じ農園、同じ区画、同じ品種のフリーウォッシュドを飲みたいと思う。
それは、他の精製方法を裁くためではない。
生産者がもともと何を持ち、そこへ何を加え、どのような表現を作り上げたのかを理解するためである。
無数の世界のなかで自分の基準を持つ
これからの私たちの仕事は、濁流のようなトレンドに無批判に流されることではない。
かといって、過去の基準だけを正解として、大衆を啓蒙することでも、特定の精製方法を布教することでもない。
自らの信じる道を、汗と工夫で切り拓こうとする生産者たちの、多様な挑戦に寄り添うこと。
そのコーヒーがどのように生まれ、誰がどのような意図で作り、どのような人に響くのかを、狭くても深く届く場所へ、精度高く伝えていくこと。
そして同時に、フリーウォッシュドという曇りの少ないレンズを手放さず、その向こうにある土地と品種の力を、プロの目で見極め続けること。
評価の正義は、複数であっていい。
だが、自らの基準を手放していいわけではない。
私にとってフリーウォッシュドとは、他の精製を裁くための新しい聖典ではない。
土地と品種の基礎的な力を読み解くために、最も信頼している比較のレンズなのである。
聖典が失われ、無数の世界が現れた時代に、自分の基準を持ちながら、他者の正義も認める。
流行にすべてを委ねることも、かつての正解に閉じこもることもできない。
迷いながらも、自分の目で選び、自分の言葉で伝えていく。
ポスト・スペシャルティの時代を生きるロースターには、もう、それしか道はないのだ。



















