2026.07.27 コーヒーの読み物
物語が溶ける一杯 Vol.6 ~ 風に消えた帽子
帽子が風にさらわれた。
ピックアップトラックの荷台から振り返ると帽子は湖畔の道を転がっていた。
次の瞬間、車は緩いカーブを曲がり、帽子はすぐに見えなくなった。

私は湖畔の町パナハッチェルにいた。
目の前には青く輝く湖面が広がり、その先には火山が並んでいた。
世界で最も美しい湖と言われるアティトラン湖のほとりに広がるコーヒーの名産地。
ここにしばらく滞在して農園を巡り、コーヒーの味を自分の舌で確かめるつもりだった。

まずはANACAFEの地方事務所を訪ねると、この周辺には大きな農園が三つほどしかなく、生産者の多くは小農家だという。
そこで私は、湖畔に点在する農協を飛び込みで訪ね歩いた。
ウイピルをまとった女性たちが実を選別し、男たちが天日干しの豆を混ぜ返している。そんな光景を、あちこちで目にした。
湖を囲む村々を巡るとき、主な足となったのがピックアップトラックだった。
現地の人たちと一緒に荷台に乗り、湖沿いの道を風を受けながら走る。その時間が好きだった。
このころの私は、いつもANACAFEの帽子をかぶっていた。
ここに来る前に立ち寄ったウエウエテナンゴの地方事務所で、職員が私に持たせてくれたものだ。
それは、私にとって見知らぬ土地へ踏み出す時のお守りでもあった。
その日も私は、その帽子をかぶってピックアップの荷台に揺られていた。
湖から吹き上げてくる風を顔に受け、私は大きく息を吸った。
少し顎を上げたその瞬間、帽子が勢いよく飛ばされた。

「あっ」と思って頭に手をやったときには、もう遅かった。
帽子は路面に落ち、風にあおられながら何度も跳ねた。それでも車はスピードを落とさない。帽子はみるみる遠ざかり、緩いカーブの奥に消えていった。
一緒に乗っていた人たちは、その様子を見てくすくすと笑っていた。けれど、恥ずかしさより先に浮かんだのは、あの帽子をくれた職員の顔だった。
日差しの強いアティトランで、何もかぶらずに歩き続けるのはつらかった。私はせめて目だけでも守ろうと土産物屋でサングラスを買った。店には帽子も並んでいたが、なぜか新しいものを買う気にはなれなかった。
その後、私はホームステイ先のアンティグアへ戻り、スペイン語学校へ通っていた。
ある日の午後、授業を終えてインターネットを見ていると、ANACAFEがコーヒーセミナーを開催するという案内を見つけた。コーヒーの品質評価を学ぶ三日間の講座だった。

見つけたその場で、私は申し込んだ。
当日は、朝早くからローカルバスを乗り継ぎ、グアテマラシティにあるANACAFE本部へ向かった。窓の外を眺めながら、どんな講座になるのだろうと、期待と不安が入り混じっていた。教室に入ると、参加者は私以外全員がグアテマラ人だった。
ある程度予想していたこととはいえ、いざその光景を目にすると、やはり緊張が高まった。コーヒー生産者も多く、新しいことを学ぼうという熱気に満ちていた。
先生が話すスペイン語は速く、講義の内容を十分に理解できないこともあった。それでも、意味のつかめない単語をできるだけノートに書き留め、帰ってから一つずつ意味を調べた。

一方、講座で使われたLe Nez du Caféでの香りの識別や、実際にコーヒーを採点するカッピングの実技では、周囲に遅れを取ることはなかった。

言葉には追いつけなくても、香りと味なら、自分の感覚を信じることができた。それまで積み重ねてきた経験が、確かな手応えに変わった。
そして最終日、講座の集大成となる筆記試験が行われた。
問題用紙を開いた瞬間、私は固まった。
知っている単語は拾えても、設問全体で何を問われているのかがつかめない。焦るほど、文章が頭に入らなくなった。
私の様子に気づいたのだろうか。先生が近づいてきて言った。
「スペイン語が分からない部分があれば、聞いてください」

私は理解できない単語や設問について質問した。
先生は答えに触れない範囲で、設問の意味を分かりやすいスペイン語に言い換えてくれた。
何を問われているのかさえ理解できれば、それまで学んできた知識で答えられる問題も少なくなかった。
私は設問の意味を確かめながら、最後まで答案に向き合った。
それでも、試験を終えたとき、自信はまったくなかった。
採点が終わり、結果発表の時間になった。全員に修了証が渡され、成績上位三人には、さらに記念品が贈られるという。
教室がざわついた。私も、順位まで発表されるとは思っていなかった。
一位、二位の名前が呼ばれ、それぞれに修了証と記念品が手渡された。
そして三位の発表を前に、先生は教室を見渡した。
「みなさん、きっと驚きますよ」
先生は一呼吸置いた。
「Yoshiyuki Kayanuma。おめでとう」

一瞬、自分の名前が呼ばれたことを理解できなかった。
静まり返っていた教室が、一気に沸き立った。
誰よりも驚いていたのは、私自身だった。
筆記では苦戦したが、カッピング実技の得点がそれを補い、総合成績で三位に入ることができたのだ。
私は立ち上がり、先生のもとへ歩いていった。修了証とともに記念品が手渡された。
白い生地に、緑色のつば。
ANACAFEの帽子だった。

あの日、湖畔の道に消えていった帽子と、寸分違わぬ姿をしていた。
ざわめく教室の中で、私だけが、この不思議な出来事に心を奪われていた。
あとがき
私の前に、二度現れたあの帽子。
最初は、見知らぬ土地へ踏み出すときに勇気を貸してくれるお守りでした。
それを失ってから、新しい帽子を買う気になれなかったのは、もうお守りなしでも歩いていけると、どこかで感じていたのかもしれません。
けれど、あの帽子は同じ姿のまま、意味だけを変えて私のもとへ戻ってきました。
今度は、自分の力で勝ち取った学びの証として。
カフェテナンゴを創業したとき、真新しい店舗の壁に、あのセミナーの修了証を額に入れて飾りました。
言葉に苦しみながらも、夢中でコーヒーを学んだあの日の自分を忘れないためでした。
そして、額には収まらなかった帽子にまつわる物語は、今も私が届けるグアテマラの一杯に溶け込んでいます。
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