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2026.06.26 コーヒーの読み物

物語が溶ける一杯 Vol.4 やさしいスタンプ

物語が溶ける一杯 Vol.4 やさしいスタンプ

 

町外れの広場に、一台の古いバスが止まっていた。

 

強い日差しの下で、車体の緑と青だけが妙に鮮やかに見える。

そのバスに乗って私は、ホンジュラスのマルカラからエルサルバドルのサン・ミゲルへ向かうことにしていた。

 

陸路で国境を越えるなら、普通は国際バスを選ぶ。
安全で、快適で、国境の手続きも簡素化される。外国人旅行者にとっては、その方がずっと理にかなっている。

 

けれど私はその日、ローカルバスを選んだ。

 

 

理由は単純で、安いからだ。

6時間かかるサン・ミゲルまでの運賃は、たったの6ドル。

しかし、現地に慣れていない人にとっては、かなりハードルが高い。

 

6時間の移動なのに、バスにトイレはない。
国境越えの手続きも全て自分でやらなければならない。

 

さらに厄介なのは発着場の分かりづらさだ。
初めて来た人なら、そこがバスターミナルだとは、まず思わないだろう。しかも、正午出発と聞いていても、乗客が少なければ平気で出発を遅らせることもある。時刻表は、あってないようなものだ。

 

そして、道中は容赦がない。

マルカラは、コーヒーの産地で標高が1300メートルほどある。
そこからバスは、エルサルバドルとの間を隔てる山脈を登り、いったん2000メートル近くまで上がる。そして今度は、海抜300メートルほどのサン・ミゲルへ向かって一気に下っていく。

 

標高が上がるにつれて気温は下がる。
ローカルバスにエアコンなどなく、窓は開いたままだ。凍えるような冷たい風が車内を抜けたかと思えば、下り始める頃には、じっとりとした暑さが戻ってくる。

 

未舗装の山道では土埃がもうもうと舞い、窓から吹き込む細かい砂が、髪にも服にも容赦なく積もっていく。
乗客たちはタオルで口元を覆い、フードを深く被り、ひたすら耐えなければならない。

 

 

出発してしばらくすると、ようやく周囲を見渡す余裕が生まれた。

 

ローカルバスには、いろいろな人が乗っている。帰国する人、旅行に行く人、商品を運ぶ人。

 

その中に一人だけ印象に残る若い女性がいた。

 

歳は二十歳前くらいだろうか。
土埃が舞い、茶色く汚れた車内では、少し不釣り合いに見えるほど清潔な服を着ていた。

 

華やかではない。
けれど、きちんと整えられた服だった。

 

 

彼女は姿勢よく座り、窓の外をまっすぐ見つめていた。
その横顔は、どこか物憂げで、緊張しているようにも見えた。

 

マルカラを出て、およそ3時間。
バスはホンジュラスの出国手続きのため、山間の小さなイミグレーションで止まった。

 

こういう国境は、審査官の数が少ないので予想以上に時間がかかることがある。
今回も出国審査を担当していたのは一人だけだった。

 

のんびりとしていて、急ぐ気配など微塵もない。
しかし、我々はただ待つしかない。黙ってルールに従わなければ、出国も入国もできない。

 

それが国境というものだ。

 

やっとホンジュラスを出国すると、今度はすぐにエルサルバドルへの入国手続きだ。
こちらも小さな施設で、いわゆる審査カウンターなどない。

 

審査官の部屋に入り、その人の事務机の前でパスポートを開き、スタンプを押してもらう。
そんな簡素な国境である。

 

列に並び、やがて私の順番が来た。

 

「¿A qué viene?」

 

何をしに来たのか、という定番の質問に対し、私は「友達に会いに来た」と答えた。
買い付け出張中なので、「ビジネス」と答えるのが正確なのかもしれない。だが、友達に会うのもまた事実だった。

 

その直後、私のすぐ隣で、若い声がはっきりと響いた。

 

「働きに来ました」

 

――それを、そのまま言ってしまって大丈夫なのだろうか?

 

思わず横を見た。

 

 

そこにいたのは、あのバスの中で見た若い女性だった。
私の隣で入国審査を受けていた。審査官も女性で、そのやりとりが耳に入ってくる。

 

「何の仕事?」

 

「Cuidar niño」

 

日本語に直訳すれば、「子どもの世話」。

 

ただ中米では、それが単に数時間だけ子どもを見る仕事とは限らない。
家の中に住み込み、子どもの世話をしながら掃除や食事の支度などを担うこともある。

 

審査官は、声を強めるでもなく、驚くでもなく、淡々とした口調で言った。

 

「そういう時はね、観光で来た、と言えばいいのよ。仕事の話になると、ここでは手続きが変わってしまうから」

 

それは彼女を咎める言い方ではなかった。
何も知らずに正直に答えてしまった若い女性を、責めるのではなく、静かに軌道修正するような口調だった。

 

彼女は少し戸惑ったように言い直す。

 

「……観光で来ました」

 

審査官は静かにうなずいて続けた。

 

「はい、わかりました。観光ね。観光での滞在は6か月だから。8月までには帰るのよ」

 

「はい」

 

それだけの短いやりとりを聞いて、私はようやく、バスの中で見た彼女の表情の意味を悟った気がした。

 

彼女は、エルサルバドルへ住み込みの仕事に向かう途中だったのだ。
国境を越え、知らない町へ行き、知らない家で暮らしながら働く。

 

バスの中で見たあの硬い横顔には、その不安が少しだけ滲んでいたのかもしれない。

 

入国スタンプをもらい、また同じ席に座った。

 

バスは再び走り出す。
窓の外には、エルサルバドルの強い日差しが広がっていた。

 

彼女は相変わらず、窓の外をまっすぐ見つめていた。
けれど、その横顔は乗り込んだ時よりも少しだけやわらかい。

 

私は心の中でそっと思った。

 

彼女の仕事先が、どうかいい人たちでありますように。

 

―Fin―

 

あとがき

 

コーヒーの産地を歩いていると、そこに生きる人たちの暮らしに触れることがあります。

 

山道を走る古いバス。
砂埃にまみれた窓。
国境を越える若い人の不安な横顔。

 

厳しい暮らしの中にも、人のあたたかさがあります。
あの女性と審査官の短いやりとりにも、それは確かにありました。

 

見知らぬ人同士でも、どこかで互いを支え合おうとする中米の人たちの空気感。

そういうものに触れるたび、私はこの土地のコーヒーがもっと好きになるのです。

 

あの日、国境で押された小さなスタンプの音は、今でも不思議と耳に残っています。

それは旅の記録であると同時に、誰かの新しい一歩を刻む音でもありました。

 


 


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