2026.09.17 コーヒーの読み物
物語が溶ける一杯 Vol.7 ~ サルバビーダ
「嘘だな」
電話の向こうで、ロニーが言った。
私は言葉に詰まり、窓の外に目をやった。
サン・ペドロ・スーラの街は、夕暮れに沈み始めていた。

これはカフェテナンゴ創業前、私が一人で中米に滞在し、各国を巡りながらコーヒーを学んでいた頃の話である。
ホンジュラスには、どうしても訪ねてみたい場所があった。コーヒーの研究や生産者への技術指導を行う機関、IHCAFE。私はそこでホンジュラスコーヒーについて学びたいと思い、研修を受け入れてもらえないかというメールを送った。
それから、一週間が過ぎ、一か月が過ぎても、IHCAFEからの連絡はなかった。外国から突然送られてきた、よく分からない日本人のメールである。相手にされなくても仕方がないと思い、私はすっかりあきらめていた。
その頃、私はニカラグアのヒノテガにあるSOPPEXCCAという農協でコーヒーの勉強をしていた。
ある日、町のネットカフェに入り、PCでメールを確認していると見覚えのある名前が目に入った。
IHCAFE
研修を受け入れる、とメールには書かれていた。
あれから半年が経っていた。
「なんてのんびりしたところなんだ」
呆れながらも、飛び上がるほど嬉しかった。私はすぐにホンジュラス行きの切符を買った。

長距離バスがサン・ペドロ・スーラのターミナルに到着した。
初めて訪れる街だったが、ガイドブックすら持っていなかった。
私はタクシーに乗り込むと、運転手に一泊15ドル以内で泊まれるホテルに連れて行ってほしいと頼んだ。
「サン・フアンというホテルへ行く」
運転手はそう言うと、車を走らせた。窓の外を知らない街が流れていく中、無事に宿へ着くのか、そもそもこの運転手を信用してよいのか、私は平静を装いながらも、荷物を握る手を緩めることができずにいた。
やがて車が停まり、掲げられた看板を見ると「ホテル・レアル」と書かれていた。

聞いていた名前と違う。なんだか嫌な予感がした。
しかし、フロントで確認すると一泊がぴったり15ドルだったこともあり、とりあえずそのホテルに泊まることにした。
部屋に入ってカギを閉めると、ようやく肩の力が抜けた。
次の朝、私は宿の電話を借り、IHCAFEに連絡をした。
呼び出し音のあと、男の声がして、ロニー・ガメスと名乗った。私はまず、場所を尋ねた。
「今からそちらに行きたいのですが、どこにありますか?」
「トヨタディーラーの脇の道を入ったところだ」
ロニーはそう言った。
「トヨタって、どこの・・・?」
私は慌てた。
サン・ペドロ・スーラはホンジュラス第二の都市だ。それほどの街ならトヨタのディーラーなど何軒もあるだろうと思ったのだ。
「落ち着け。この街にトヨタは一軒しかない」
そうなのか。それなら安心してトヨタを探せばいい。
そう思っていると、ロニーが今泊まっているホテルの名前を尋ねてきた。
「ホテル・レアル」
私がそう答えると、彼は言った。
「これからセサールが車で迎えに行く。ホテルで待っていてくれ」
私は礼を言い、受話器を置いた。
ロビーで待っていたが、なかなかセサールは現れず、1時間近く経ったころ、ようやくホテルの前にそれらしき車が停まった。
降りてきた男は、特に悪びれる様子もなく、ニコニコしながら言った。

「いやあ、ごめん。似たような名前のホテルがあってさ。そっちに行っちゃったよ。」
何か面白いことがあったとでも言いたげな口ぶりで、拍子抜けしながらも私は少し可笑しくなった。
車はIHCAFEへ向かい、やがて建物の前に着いた。
中へ入ると、二人の男が迎えてくれた。一人は、これまでメールをやり取りしていたウリセス。
もう一人が、電話で話したロニーだった。私の顔を見るなり彼は言った。
「俺はおまえを待っていたよ」
半年前のメールからここまでの道のりを思うと、こんなにも真剣に自分を待っていてくれた人がいたという事実が、意外でもあり、嬉しくもあった。
「ありがとう。今日からよろしくお願いします。」
挨拶が終わると建物の奥へ案内された。
廊下を進んだ先の部屋には、壁際に大きなホワイトボードがあった。
ロニーはそこへ向かうと、すぐにペンを取り、生産地域や品種、栽培環境、流通の現状について、地名や数字を交えながら書き始めた。話し始めると、彼の手はなかなか止まらなかった。

ホンジュラスには、まだ世界に知られていない素晴らしいコーヒーがある。
いつか必ず、この国のコーヒーが正当に評価される日が来る。
ロニーは、そう信じていた。
午後はカッピング。
用意された二十種類のサンプルの脇にセサールが立った。
てっきり運転手だと思っていたが、彼はコーヒー業界に二十年近く身を置く、生粋のスペシャリストだった。
焙煎されたサンプル豆をつまみ上げ、センターカットの開き方を見せながら、彼は言った。
「これくらい開いていれば、標高は1000m以下だな」
味を見ただけで標高による等級を言い当てることもできるという。私はスプーンを手に、セサールの解説を聞き取るのに必死だった。最後にもう一周カッピングをしようと思ったとき、突然室内の明かりが消えた。
停電だった。
空調の音も止み、室内は静かになった。午後の光の中にカッピングボウルだけが静かに並んでいた。
「今日はここまでにしよう」
ロニーがそう言うとスタッフたちは片付けを始め、職員の一人が私を宿まで送ってくれた。
しばらくすると、部屋の電話が鳴った。
フロントからで、私宛てに電話がかかっているという。
受話器を取ると、ロニーだった。
挨拶もなく、勢いよくしゃべり始めた。
「おまえ、すぐに宿を変えろ!自分がどんな場所にいるのか分かっているのか?」
私には、何を言われているのか見当がつかなかった。
「どういうこと?」
「宿の近くに、若い女がたくさんいなかったか?」
言われてみれば、思い当たることがあった。
「ああ。そういえば、道の角に若い女性が何人か立っていた」
「何か話しかけられなかったか?」
「笑顔で話しかけてきた人もいた。でも、何を言っているのか分からなかった」
ロニーは声を強めて言った。
「いいか。絶対に彼女たちについていくなよ」
そこでようやく、ここがそういう地区だと分かった。
「今から宿を変えるのは無理だ。日が暮れるし、もう金も払ってしまった」
「だったら、明日の朝まで宿から一歩も外に出るな」
「分かった」
「嘘だな」
間髪を入れずに返ってきた。
「おまえはこれから、夕飯を食べるために外へ出るはずだ」
鋭い。
私は今、まさに夕食を食べに出ようとしていた。
「もしそうなら、俺がついて行ってやる。そこで待ってろ」
そこまでしてもらっては申し訳ないと思った。
「いや、外出しない。食事はホテルで済ませるよ」
「本当だな?」
「ああ」
「絶対に外へ出るなよ」
ロニーは何度も念を押して電話を切り、私は受話器を置いた。
そして、なんだか少し嬉しくなった。まだ会って一日も経っていないのに、彼はまるで昔からの友人のように私の身を案じているのだ。
私は窓越しに、日が沈んでいく街を眺めた。
昼間に見たときは、ただ人の多い場所だと思っていたが、今の話を聞いたあとでは同じ道がまるで違って見えた。
――絶対に外へ出るなよ。
そう念を押されたばかりだというのに、この街が夜にどんな顔を見せるのか気になって仕方がなかった。
結局、私はロニーとの約束を破った。
パスポートとクレジットカードは部屋に置き、少しだけ現金をポケットに入れてホテルの外へ出た。
暖かく湿った風、クラクションの音、たくさんの車がゆっくりと行き来していた。
すれ違う人々は、何が楽しいのか、笑い声をあげながら歩いていた。
長く歩き回る気にはなれずに、近くのレストランへ飛び込んでビールを一本頼んだ。
しばらくすると、店員が冷えた瓶をテーブルに置いた。
持ち上げて一口飲む。喉を通るビールの心地よさに、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていった。
ふとラベルに目をやると、大きな文字でこう書かれていた。

「SalvaVida」(サルバビーダ)――スペイン語で「命を救うもの」
「うまいな」
日は完全に落ち、ネオンは暗い道を照らしていた。
こんなところをロニーに見つかったら、きっとひどく怒られるだろう。
あとがき

あの夜、本当のSalvaVidaは、電話の向こうにいた男でした。
スペイン語で「ライフセーバー」を意味する「SalvaVida」というビールが目の前に置かれたとき、約束を破った私を咎めるためにロニーが現れたように感じたのです。
それは、あまりにも巧い偶然でした。
あれから20年が経ち、ロニーはRaga Cafeを、私はカフェテナンゴを創業し、それぞれの場所からホンジュラスコーヒーを繋いでいます。
IHCAFEでの一週間に及ぶ研修。その初日に起きたあの出来事は、私にとってホンジュラスコーヒーの原点になりました。
そして今も、その記憶はカフェテナンゴの一杯に、静かに溶け込んでいます。




















