2026.07.19 コーヒーの読み物
物語が溶ける一杯 Vol.5 ~鳴らない鐘と高い門
今でも、あの門のことを覚えている。
2007年、私はグアテマラのウエウエテナンゴにあるANACAFEの小さな地方事務所にいた。
手にはエル・インヘルト農園が載ったパンフレットを持っていた。
「この農園に行ってみたいんです」
そう職員に伝えると、まず返ってきたのは当然の質問だった。
「アポイントはあるのか?」
「ありません」
そう答えたとき、職員たちは皆困ったような顔をした。

エル・インヘルトは、ふらりと訪ねて入れるような農園ではない。
ましてやコーヒーバイヤーでもない、よく分からない日本人が突然訪ねたところで、門を開けてもらえる可能性は、ほとんどなかった。
けれど当時の私には、農園とつながるツテもなければ、どうやって連絡を取ればいいのかも分からなかった。
今思えば、ずいぶん無謀な話である。
それでも私は、どうしてもエル・インヘルトという場所に自分の足で立ってみたかった。
「とりあえず行ってみます。ダメだったら仕方ないので、諦めて帰ってきます。だから行き方だけ教えてください」
そうお願いすると、職員のひとりが少し笑いながら言った。

「君にこのANACAFEの帽子をあげよう。これを被っていけば、うちの職員だと勘違いして入れてくれるかもしれない」
そんな都合のいい話があるはずもない。それでも、冗談まじりに背中を押してくれているのだと思い、私はその帽子を受け取った。
何も持たずに向かうよりは少しだけ心強い気がしたのだ。
その職員は、幹線道路沿いにあるエル・レポソという場所まで私を送ってくれた。そこから先はバスもタクシーもない。細い山道に入り、現地の人が使っているピックアップトラックの荷台に乗ってエル・インヘルトを目指すしかないという。
エル・レポソに着いたからといって、そこに公式な停留所や時刻表があるわけではない。
外国人の私にとって、現地のピックアップトラックを使うのは、それだけでかなり勇気のいることだった。
どの車に乗ればいいのか。
本当にエル・インヘルトの方向へ行くのか。
違う場所に連れて行かれたらどうしよう。
悪いことばかりを想像してしまった。
そこで私は近くの商店に入り、たいして飲みたくもないコーラを一本買い、店のおばちゃんに聞いてみた。

「エル・インヘルト農園に行きたいんですが、どのトラックに乗ればいいですか?」
おばちゃんは、外に停まっている一台を指さして、
「あれに乗ればいいよ」
と教えてくれた。
その一言だけで不安が和らいだ。
旅先ではそんな小さな情報が命綱のように感じられることがある。
私はピックアップトラックの荷台に乗り込んだ。
舗装されていない山道を、車は砂埃を巻き上げながら進んでいく。荷台に座る私の身体は右へ左へと揺られた。

四十分ほど走った頃だっただろうか。運転手が私に声をかけた。
「ここがエル・インヘルトだ」
そう言われて、私は荷台から降りたが、周りを見回しても農園らしいものは何も見えなかった。
高い木々が茂り、山道が続いているだけである。
本当にここで合っているのだろうか。
私は半信半疑のまま歩き出した。
すると、しばらくして道を遮るように川が流れていた。橋があるわけではない。
幸い、水はそれほど深くなく、スニーカーのままでも何とか渡ることができた。
川を越えて、さらに歩いた。
その途中で、マチェテを持った男とすれ違った。

頭では農具だと分かっていたが、胸の奥がぎゅっと縮むような不安に襲われた。
彼は何も言わず、すぐに山の奥へ入っていった。
ただ農作業をしている人に怯えるほど、私は心細くなっていたのだ。
さらに歩くと、ようやく農園の入口らしきものが見えてきた。
大きな門だった。

見上げるほど高く、簡単には中へ入れないような、しっかりとした門だった。
そこに、緑色の看板がかかっていた。
Favor toque la campana(鐘を鳴らしてください)
なるほど。呼び鈴のようなものか。
そう思って鐘を鳴らそうとしたが、これが高い位置にあって手が届かない。
仕方なく横のフェンスによじ登り、どうにか紐をつかんで揺らしてみた。
しかし、鐘は鳴らなかった。
何度か揺らしてみても、音はしない。
ただ静かに揺れるだけだった。

鳴らない鐘と、高い門。
そのときの私には、農園から静かに訪問を拒まれているように思えた。
門の向こうにはパティオが広がり、労働者たちはそれぞれに自分の作業をしていた。
誰もこちらに気づいていないようだった。
私はフェンスをつかみ、わざと音がするようにガシャガシャと揺らした。

しばらくすると、ひとりの男性がこちらに気づいて近づいてきた。
「何か用か?」
「日本から来ました。農園を見学したいんです」
そう答えると、彼は少し驚いたような顔をした。
「パティオの責任者を呼んでくるから、待ってろ」
そう言って、彼は奥へ行ってしまった。
じりじりと照りつける日差しの下、私は門の前に立ち尽くした。フェンスをつかんだ手のひらには、まだ鉄の熱が残っていた。
しばらく待つと、パティオの責任者と一緒に戻ってきた。
「ここに何をしに来たんだ?」
「この農園を見るために、日本から来ました」
すると今度は、
「わかった。管理人を呼んでくるから待っていろ」
と言われ、また待つ。
遠くでトラクターが走る音が聞こえた。風には、乾燥パーチメントの匂いが混じっていた。
ここまで来た。けれどまだ中に入れるとは決まっていない。
しばらくして、パティオの責任者が農園の管理人を連れて戻ってきた。

「中を見たいそうだが、約束はあるのか?」
「ありません。突然来て申し訳ありません。でも、どうしてもここを見たかったんです。中に入れてもらえませんか?」
すると管理人は、少し考えるような顔をしてから言った。
「オーナーを呼んでくるから、もう少し待っていてくれ」
まるで伝言ゲームのように人が入れ替わり、そのたびに私は同じ説明を繰り返した。すでに二十分以上が経っていた。日はすっかり高くなり、首筋に汗が伝っていた。
今度こそ、本当にアルトゥーロが来るのだろうか?
高い鉄格子の向こうには、奥へと続く道が伸びていた。けれど、そこに人の姿は見えない。
私は、門の前で待ちながら何度もその道の先へ目をこらした。
やがて奥の建物の方から、ひとりの男性がこちらへ歩いてくるのが見えた。
アルトゥーロ・アギーレだった。
開口一番、彼はこう言った。
「どこの商社だ? 車はどこに停めたんだ?」
当然の質問だったと思う。
日本人がわざわざエル・インヘルトまで来るなら、商社の人間か、何かしらの関係者だと思うだろう。しかも、普通なら車を手配して訪れる場所である。外国人が地元のピックアップトラックの荷台に乗って現れることなど、ほとんどなかったはずだ。
私はまだつたないスペイン語で、一生懸命に答えた。
「商社ではありません。個人的に来ました。車で来たのではありません。ピックアップトラックに乗ってきました。どうしても、この農園を見てみたかったんです」
うまく話せたかどうかは分からない。
ただ、ここまで来た気持ちだけは伝えたかった。

するとアルトゥーロは、門を開けてくれた。
「ここに来る日本人で、スペイン語を話すやつは少ない。どこでスペイン語を覚えたんだ?」
「アンティグアに半年滞在して勉強しました。グアテマラのコーヒー農園に行くには、スペイン語が必要だと思ったんです」
短いやり取りだった。けれど、少しは熱意が伝わったのかもしれない。
アルトゥーロは言った。
「自由に中を見ていっていいよ。帰るときは下まで送ってあげるから言ってくれ」
門の中に入れた。それだけで胸がいっぱいだった。
自由に見ていいと言われても、どこを見ればいいのか分からないほど広い農園である。
私は控えめに畑のそばを歩き、ウエットミルやドライミルを一通り見て回った。
ここがエル・インヘルトなのだと思った。
自分の足で、その場所に立っている。
それだけで、私は十分に感激していた。
見学を終える頃、アルトゥーロが「ご飯を食べていきなさい」と言ってくれた。
恐る恐るキッチンのドアを開けると、何人もの女性が忙しそうに動いていた。
席に着くと、私の前に一皿の食事が置かれた。

焼き立てのトルティージャ。
そして、一杯のコーヒー。
それが、私にとって初めてのエル・インヘルトだった。
今となっては、そのコーヒーの味を細かく説明できるわけではない。
けれど、その一杯が特別だったことだけは、はっきり覚えている。
帰りは農園の車でエル・レポソまで送ってもらった。
山道を下りながら、私はずっと景色を見ていた。
早くANACAFEの事務所に戻って、あの職員たちに言いたかった。
「エル・インヘルトに、行ってきましたよ」と。
あとがき

あの日の帽子には、効果があったのかどうか、今でも分かりません。
アルトゥーロが門を開けてくれたのは、帽子のおかげだったのか。それとも、アポイントもなくピックアップの荷台に乗ってやって来た日本人を、ただ面白がってくれただけなのか。
けれど、あの日の私にとっては、たしかにお守りのような存在でした。
今でもエル・インヘルトのコーヒーを口にすると、あの日のことをふと思い出します。
その一杯には、鳴らなかった鐘も、もらった帽子も、門の前で待ち続けた時間も、静かに溶け込んでいるのかもしれません。




















