2026.06.13 生産者特集
エル・インヘルトの品種たち ~ El Injerto特集 Vol.6
なぜ名門農園は、時代が変わっても勝ち続けるのか
ゲイシャという品種が、スペシャルティコーヒーの世界を大きく変えました。
けれど、エル・インヘルトを少し長く見てきた人間にとって、この農園はゲイシャだけの農園ではありません。
ゲイシャが注目される前、パカマラという品種が世界を驚かせた時代がありました。エル・インヘルトは2008年から2010年まで、そのパカマラでCOEを3年連続制しています。さらにその前、2006年。エル・インヘルトが初めてグアテマラの頂点に立ったとき、その品種はブルボンでした。そして2011年には、マラゴジペでCOE3位。
ゲイシャ、パカマラ、ブルボン、マラゴジペ。
一つの品種で突出した結果を出すことは、もちろん大きな快挙です。けれど、複数の品種で、しかも時代を変えながら何度も頂点に立つことは、別次元の話です。
それは、その農園に品種ごとの個性をきちんと引き出す力があるということ。
土地を読む力と、品種を育て上げる技術が、どの品種にも等しく注がれているということ。
エル・インヘルトの本当の凄さは、そこにあると私は思っています。
ブルボン —— 名門の原点
エル・インヘルトが最初に世界の頂点に立ったのは、2006年。
エル・タンケ区画のブルボンでCOE1位でした。
アルトゥーロによれば、エル・インヘルトのブルボンはエルサルバドルで選抜されたテキシック系のものが多いとのこと。伝統品種の中でも、さらに選ばれて洗練された系統です。
2020年のことでした。アルトゥーロから一通のメールが届きます。
「いいブルボンがある。買わないか」
それは、エル・タンケ区画のブルボンでした。独占していたロースターがコロナ禍で破綻し、売り先を失ったアルトゥーロが、まず初めに連絡をくれたのです。
私はすぐに決めました。アルトゥーロを助ける意味もありましたが、伝説の区画から生まれるブルボンを味わうチャンスだと思ったからです。
当時、日本にもエル・インヘルトのブルボンは輸入されていました。ただし、エル・タンケ区画のものではありません。そこで私は、日本で通常出回っているエル・インヘルトのブルボンを手に入れ、飲み比べてみました。
結果は、明らかでした。
凝縮感。風味の豊かさ。マウスフィールの心地よさ。すべてにおいて、エル・タンケ区画のブルボンは別格でした。
ブルボンは、パカマラやゲイシャのように派手な語られ方をされる品種ではありません。けれど、業界の中には「エル・インヘルトの本当の実力を知りたければ、ブルボンを飲め」と言う人がいます。
その気持ちは、よく分かります。華やかさではなく、品格で伝わってくるものがある。エル・インヘルトという農園の土台が、一番素直に出るのがブルボンなのかもしれません。
マラゴジペ —— 授賞式でのストーリー
2011年のCOE表彰式の会場。私はアルトゥーロと一緒に参加し、隣の席に座っていました。
その年、エル・インヘルトが出品したのはパカマラではありませんでした。
マラゴジペ。
3年連続1位のあとの出品です。当然、周囲の期待も大きかった。
アルトゥーロはどこか緊張しているように見えました。
順位が下から発表されていきます。5位、4位と呼ばれるたびに、エル・インヘルトの名前がないことを確認しながら聞いていました。
そして3位。エル・インヘルトのマラゴジペが呼ばれました。
会場に起きた、どよめきと大きな拍手。アルトゥーロが椅子から立ち上がりながら、ちらっと私の方を見た。そして、少し安堵したような表情を浮かべてから、表彰台へ向かって歩いていきました。
後から聞いた話では、アルトゥーロ自身、マラゴジペで入賞できるとは思っていなかったそうです。それだけに彼自身の驚きと喜びは、とても大きかった。あの表情を見て、私も嬉しく、そして誇らしく思いました。
マラゴジペは超大粒の品種です。生豆を見ると、その大きさにまず驚きます。ただ、エル・インヘルトのマラゴジペは、大きな豆から想像するような大味なコーヒーではありません。ストーンフルーツを思わせる甘い香りに、チョコレートとハーブがおだやかに調和した、濃厚でありながらすっきりとした余韻が続きます。
あの日以来、カフェテナンゴではエル・インヘルトのマラゴジペを扱い続けています。飲むたびに、あの会場の空気と、表彰台へ向かうアルトゥーロの横顔がよみがえります。
モカ —— 小粒の異端児
ずいぶん前のことですが、アルトゥーロから「モカ種を実験的に植えている」という話を聞いて農園まで見に行ったことがあります。サンプルは、まるで黒コショウのような小さく丸い豆で、今まで見たことのない豆面でした。風味はナッツやキャラメルを思わせる、香ばしく甘い印象。このモカについては、プライベートオークションの回で改めて詳しく取り上げます。
イエローナンセ —— カフェテナンゴで最も愛される味
このロットは、COEの受賞歴がありません。けれど、カフェテナンゴでエル・インヘルトのロットを並べると、いつも一番最初になくなるのがこのイエローナンセです。
農園からはイエローカツーラとイエローカツアイの混合ロットだと説明されています。黄色く熟したチェリーから生まれるバナナ、メロン、チョコレートを思わせる甘く独特のフレーバー。長細いロングベリー系の豆面は、生豆の段階からすでに個性的です。
賞歴という物差しでは測れない魅力があります。飲んだ人が次もまた求める。それが、このロットの正直な評価です。
ゲイシャ —— タネの血統と土地との相性
エル・インヘルトには「レジェンダリーゲイシャ」と呼ばれるロットがあります。パナマのエスメラルダ農園から分けてもらった種を、エル・インヘルトの土地で育てたものです。ゲイシャという品種を世界に知らしめたあの農園から受け継がれた種が、ウエウエテナンゴの高地で育っている。それだけでもコーヒー好きには胸が高鳴る話です。
アルトゥーロによれば、このレジェンダリーゲイシャはフリーウォッシュトで十分にゲイシャらしい華やかな風味が出るといいます。土地と品種がかみ合っているということでしょう。
一方で、エル・インヘルトではマラウィゲイシャも植えたことがあります。こちらはあまり期待通りのフレーバーが出なかったとのことで、ナチュラル精製で風味を補う形を取っているとアルトゥーロから聞きました。
ゲイシャだから良い、有名な品種だから植えれば成功する、という単純な話ではありません。どれほど評価の高い品種であっても、タネが純粋でなければ、その土地に合わなければ、本来の魅力は出ない。逆に、土地と品種がかみ合ったとき、驚くほど美しいコーヒーが生まれる。
エル・インヘルトのゲイシャは、タネの純粋性、土地との調和、人の技術が創り出す芸術品なのです。
エル・インヘルトの『5品種計画』
今年の出張でアルトゥーロと話していたとき、エル・インヘルトは今後栽培品種を5つに絞っていく計画だと聞きました。
理由は、効率化と収益改善です。
品種ごとに収穫のタイミングが異なるため、ピッカーたちにそれぞれの見極め方を教えるのが難しく、作業効率も上がりにくい。精製施設でもロット数が増えるほどコストがかさむ。さらにエル・インヘルトは他の農園からチェリーを買い付けることをしないため、収穫量には自ずと上限があります。であれば、ゲイシャやパカマラのような高単価品種に集中したほうが、農園としての収益は上がる。
農園経営として、理にかなった判断だと思います。
ただ、マラゴジペはその5つには入らない方向だと聞いて、私は少し言葉を失いました。イエローナンセも同様に、縮小していく方向だということでした。
頭では分かります。品種を絞ることで農園が持続可能になるなら、それは正しい選択です。アルトゥーロがこれほど長くエル・インヘルトを世界のトップに置き続けてきたのは、こうした判断を積み重ねてきたからでもあるはずです。
それでも、正直に言えば寂しい。
カフェテナンゴで長年扱い続けてきた銘柄たちは、できれば残してほしいという気持ちがあります。
しかし、農園には農園の現実があり、私にはそれを変える力はありません。
ただ、今あるマラゴジペを、これからも一杯一杯丁寧に扱っていきたいと思っています。



















