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2026.06.15 生産者特集

欧米の基準、アジアのあこがれ ~ El Injerto特集 Vol.7

欧米の基準、アジアのあこがれ ~ El Injerto特集 Vol.7

エル・インヘルトの世界的評価

エル・インヘルトが初めてCup of Excellenceで1位を獲ったとき、農園は何かを変えたのでしょうか?

 

答えは、否です。

 

アルトゥーロ・アギーレが山の斜面で続けていた仕事——区画ごとの管理、施肥、収穫のタイミング、適正な精製は、受賞の前も後も本質的には変わっていなかったはずです。

 

トロフィーをもらったからといって翌朝の作業が変わるわけではありません。

標高が上がるわけでも、土壌が変わるわけでもない。

 

では、何が変わったのか。

変わったのは、世界の側でした。

 

COEとは翻訳機だった

2000年代、スペシャルティコーヒーはまだ発展の途中にありました。

 

優れた生産者はすでに存在していた。

美味しいコーヒーも各地にあった。

 

しかし、その価値を世界中のロースターが同じ言葉で理解し、比較し、取引するための仕組みは、まだ形になりきっていなかった。

Cup of Excellenceは、その流れの中で生まれた装置でした。

私はCOEを単なる品評会として見たことがありません。

 

あれは翻訳機だったと思っています。

 

ウエウエテナンゴの山奥で長い年月をかけて積み重ねられてきた農園の仕事を、スコアと順位という世界共通の言語へ置き換える。現地に行かなければ見えなかったものを、地球の裏側まで届ける回路。

 

エル・インヘルトが2006年にブルボンで1位を獲ったとき、それはその回路を初めて流れた信号でした。

 

「あのロット」から「あの農園」へ

最初の1位で、世界はそのロットに驚きました。グアテマラのブルボンは、こんなにもすごいのか、と。

 

しかし2008年、今度はパカマラで1位。翌2009年も、2010年も、パカマラで頂点に立ち続けます。

3年連続。さらに2011年にはマラゴジッペで3位に入り、年月を経て、2017年にはゲイシャで2位、2021年にはゲイシャで再び1位。

 

品種が変わっても、時代が変わっても、評価され続ける。

そのとき、世界の視線は少しずつ変わり始めました。

 

「あのロットはすごい」から、「あの農園は信頼できる」へ。

 

ひとつのコーヒーへの驚きが、農園そのものへの信頼に変わる瞬間。

それは、エル・インヘルトが何かを仕掛けた結果ではありませんでした。変わらずに仕事を続けた結果として、自然に起きたことでした。

 

世界は二つの顔でエル・インヘルトを見ている

近年、エル・インヘルトのオークションで落札企業の顔ぶれを見ると、台湾、韓国、タイ、日本——アジア圏のロースターの名前が並びます。欧米勢の姿は、かつてよりかなり少ない。

これは、欧米のロースターがエル・インヘルトの価値を見限ったということではありません。

 

むしろ逆です。

 

彼らはすでに、この農園との関係を長年のダイレクトトレードの中に組み込んでいる。オークションで競り合わなくても、自分たちの棚にエル・インヘルトがある。評価は、競争の外側へ移っていったのです。

 

アジアとの違いは、もっと根底にあると思っています。

もともとアジアには、茶の文化がありました。一杯の液体に、産地と品種と季節と、そこに関わった人間の仕事を見出す。わずかな量に高い価値を置き、その一杯を丁寧に味わう。そういう審美眼が、文化として長く根づいていた。

スペシャルティコーヒーが届いたとき、アジアにはそれを受け取る器がすでにあったのかもしれません。

 

だから今もアジアのロースターは、エル・インヘルトを追いかけます。欧米では品質の基準点として業界の地図に組み込まれたこの農園が、アジアでは今もなお、いつか手に入れたい一杯として機能し続けている。

同じ農園が、世界の場所によって、まったく異なる意味を持っている。

それもまた、エル・インヘルトの世界的評価のもうひとつの姿です。

 

2007年、私もその波の中にいた

私が初めてエル・インヘルトを訪れたのは、2007年のことです。

手には農園が前年にCOEで1位を獲ったことを知らせるANACAFEのパンフレット。しかしその農園のコーヒーを、まだ一度も飲んだことがなかった。アポイントもなく、場所もよく分からないまま、ANACAFEの地方事務所で行き方を聞き、途中からはピックアップトラックの荷台に乗って、砂埃の舞う山道を進みました。

農園の入口に立ったとき、『ここが、世界中のロースターが評価した場所なのか』と感動しました。

 

後から振り返れば、あの2007年は、アジアのロースターたちがエル・インヘルトに気づき始めた時期と重なっていました。茶文化を持つアジアの一員として、この農園の一杯に特別な意味を見出そうとしていた人間の中に、私もいた。

 

私は世界の評価を外から眺めていたのではありませんでした。

その評価を形成していた側の一人だったのです。

 

物差しになった農園

その後、エル・インヘルトは世界のロースターにとって、ひとつの基準点になっていきました。

 

グアテマラのパカマラを語るとき、エル・インヘルトを避けて通ることはできない。

COEの歴史を語るときも、この農園の名前は必ず出てくる。欧米では業界の地図の中へ、アジアでは憧れの対象として、形は違っても、世界中のロースターがこの農園をひとつの物差しにするようになっていった。

それは、農園が声高に何かを主張したからではありません。

変わらず、そこにあり続けたからです。山の斜面を読み、品種を選び、完熟を待ち、収穫に向き合う。その繰り返しを続けていた農園に、世界の評価の仕組みがようやく追いついてきた。

 

エル・インヘルトが世界に合わせたのではありません。世界の方が、エル・インヘルトの価値を受け取れるようになったのです。

 

次の物語へ

ただ、世界に発見されることは純粋な祝福ばかりではありません。

名前が知られれば、期待が生まれます。期待が生まれれば、再現が求められます。欧米からもアジアからも、農園の門を叩く人間が増えていくにつれ、エル・インヘルトはやがて問われることになります。世界との関係を、誰が設計するのか、と。
評価される側から、場を作る側へ。

その問いへのエル・インヘルトの答えは、次回に続きます。

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